Frog in a White Coat.

白衣のカエル

青チャート数学なるものを手にれた。

チャート式

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青チャート数学なるものを手に入れた。

マセマの『初めから始める数学』を徹底的に(講義3周問題2、3周)やった後に、同じマセマの『元気が出る数学』をやり始めている。

いわゆる『青チャート』は『元気が出る数学』の後にやる予定。

数学は基礎が8割、9割できている感覚なので、初見でも大体の考え方がわかり、解説を読めば分かる程度まで成長した。

「読めばわかる」レベルまで成長できたら、読み物として量をこなしていく。日本語ができるようになったら読書量を増やして語彙を増やすように、数学も基礎ができて読めるようになったら演習をこなしていく。

現在進行形の『元気が出る数学』で「????」となったときに一つ段階の高い青チャートの同系統の問題をよんで「!!!!」となる。

なぜそうなるのか、よりも、なぜこの考え方は使えないのか、で悩み、自分の持っている考え方の勘違いに気づく。

しかして、私には「教科書傍用問題集」やら「基礎問題精巧」やらは合わなかった。

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クリアー数学I+A

「三角形の存在条件を述べよ」だったり

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基礎問題精巧II+B

「次の計算をせよ」だったり

こういった三角形の存在条件を前もって知っておく必要があったり、問題の後に解説があるのはどうも、単純暗記に頼ってしまいがちになりそうだ。

単純暗記とは、忘れるものである。たとえば、数年後、十数年後にこれらの参考書を開いてみて読めるか理解できるかと聞かれれば、「受験数学は昔だから忘れてしまった」きっと私は下手な言い訳をするのだろう。

単純暗記とは、応用ができない。単純暗記とは、言語でいうところの読書と同じものである。「蟻とキリギリス」を読んだ。「眠れる森の美女」を読んだ。と同じことになる。

「蟻とキリギリス」を読んで「眠れる森の美女」を読んで、さあ哲学書を読もうとはできないのだ。この前提には、日本語を聞いて、知って、扱えるような基礎がないといけない。

また、「蟻とキリギリス」の物語の内容を一言一句間違えずに覚えていられるか、とうのも単純暗記というものは忘れるものと物語っている。「蟻とキリギリス」を忘れるように単純暗記は忘れるのである。

数学、もとい勉強全般に言えるのは、単純暗記に頼るとその勉強は瞬間的で、受験というものには耐えうるけれど、知識としては軽薄になってしまうことである。

 

ならば、単純暗記にならない勉強法をやるべきである。

ある知識があったとき、私たちがまずすることは「知る」ことである。

*知識の存在を知る→なぜ存在できるのかを考える→知識の扱い方を知る

言語でも似たような話がある。

人が言語を習得するとき、聞き→話し→書くの順で理解されると聞かされるが、子供を想定すれば、両親から赤ちゃん言葉で話される聞き、その言葉を真似る話し、そのあとに文字を書く練習をする。

知識全般でも同じく、やはり

*知識の存在を知る→なぜ存在できるのかを考える→知識の扱い方を知る

の順が成り立っている。

知識の存在を知る「講義」であり、なぜその知識が成り立つのか「解説」であり、知識を扱い方を知る「演習」である。

だから、初手に「三角形の存在条件の述べよ」演習だったり、「次の計算をせよ」演習をするのは、知識の習得の順番が違っているので単純暗記になる。

青チャート数学を開いてみると、問題がずらっと並んでいる。ここで気づくべきは、この参考書が

*知識の存在を知る→なぜ存在できるのかを考える→知識の扱い方を知る

において、知識の扱い方を知る、三番目の段階だということだ。だから、この参考書を初手にやると、単純暗記になるとなんとなく想像されて、知識として軽薄なりそうだなと気づくのだ。

だから、私みたいな凡人は、超暗記力もなく天才性もないので

*知識の存在を知る→なぜ存在できるのかを考える→知識の扱い方を知る

の順に従って、順番に講義、順番に解説、順番に演習を地道に進めていかなければならない。