Frog in a White Coat.

アニメと数学。




日記、2021/02/03

(ストレス発散記事)

何を書くのか忘れた。

最近ちょっと疲労感がぱない。風邪になる前の気だるさがあって、熱っぽいのにそうではないし、頭の回転も鈍くなってきている。

数学の勉強が順調に進んで、調子にのって物理と化学と英語も並行してやっていた。私でも数学ばっかりやってると飽きてくる。

私の場合、だいたい2時間くらいで飽きがきて集中力がきれる。最初のころはせいぜい40分だったが増えた。

参考書の文を目で追ってるのに頭の中で妄想を初め出したら集中力が切れた証拠。

そのとき、科目を入れ替えると、また集中できるわけだ。

そうやって、最初は物理を追加して数学1A2B3を一周したころには、物理の力学と波動を終わらせていた。物理に飽きたら化学を化学に飽きたら英語を、と追加していくと永遠に勉強できる。

英語に関していえば、単語を全然覚えていなかったものだからそこからやり直し。

私は意味のない勉強はしない。

私の目標は「人工知能」の開発で、もっといえば「量子コンピュータ」の開発。

だからこそ、勉強をしている。これが原動力。モチベーションだ。

形だけの勉強、本質をついてない勉強は無意味だ。

疲れたときには量子コンピュータを語られた一般書を読む。そこで私は思うのである。ああ、これだ、私はこれがやりたかったんだ、これが私の理想だ、と。

我思うゆえに我あり。

正直な話、私はすごく面倒くさがりだから、勉強も計算もなにもかも全部、人工知能にやらせようという魂胆がある。

サボりたいがために最高の知識を獲得しようとしてる矛盾。

 

人並みの幸せとか人並みの享受とか要らん。

量子コンピュータで理想の仮想世界を創ることもできるし、人工知能があれば理想の恋人も創ることができる。いうまでもなく、神である。

私はただ人間以上の存在になりたい。人間でありながら人間をやめたいのである。だが、人間であることに変わりないから。所詮、人間以上人間未満の存在にしかなれない。人間以上人間未満、つまり人間である。

 

理想の世界を創るといえば創作。私は絵が書けないので、小説に手をだした。結論からいうと勉強不足だった。オタクなみにアニメや漫画に触れてきたけど小説に触れたことはなかった。

学生のころは教科書を読んでいた。あれは読む物じゃない。教科書は論理的な文章だから将来役にたつという「かもしれない」という動機で論理文を読んでいた。写経もした、教科書をまるまる書き写したりした。今思えば無意味だ。

強いて言えば、活字の羅列に慣れたことだ。

小説は独自の世界観を強制する。アニメや漫画だと受け身だけど、小説の場合、読むという自発的な行動が必要だから、その世界に入るのに躊躇する。

この最初の一歩が怖いのである。

その創作の世界に入っていいのか、ある意味の現実逃避じゃないのか。アニメや漫画だとすんなり出せた一歩でも小説だと出せない。

専門書は読み漁れるけど小説は無理となった。

ただの一歩だけでいい。1があれば、2にできるし、3にできる。でも0を1に変えるのはすごく難しい。

だから私はあまく見積もって今年中には小説を一作品読破することにした。ただの一作品。だが私にとってはすごくめんどう。

この問題を解決する方法は考えてある。アニメや漫画で踏み出せるのなら、アニメや漫画を小説にしたものならどうか。試したところ50ページくらいで読むのを飽きてしまった。謎。

つまり私は創作に物語ではなく、別のところに惹かれていたことになる。

イラストだったり音だったり声だったり。

だったら私のする創作も小説ではないことになる。だから、絵に手をだした。

まず私は私を考察して私を知っていくことから始めた。

我思うゆえに我あり。

何ができて何ができないのか。何が好きで何が嫌いなのか。

一流の運動選手はまず自分の体を知ることから始めるらしい。

腕を水平にあげて、カメラでとって確認する。自分では水平にあげたつもりでもそうならない。何で?という具合らしい。

 

他人になることはできないけど、自分になることはできる。

私は何かの被害者に100%共感できない。なぜなら、私はあなたではないから。

「共感するよ」「同情するよ」「その気持ち分かるよ」

クソみたいなセリフだ。その人の境遇、受けた悲しみはその人にしかわからないのに、わかったフリをする。そういう奴はだいたい騙そうとしている。軽い言葉、くそをくそで包んだような言葉。

ニュースで家族を失った被害者がうつる。私は残念だと思うがそれ以上は思わない。第一家族構成が違うし、どれだけ大事にしていたかもわからない。

彼の失った悲しみは私の悲しみでは推し量れない。

私の感情ではあなたの感情を推し量れない。

逆に自分の理解者は自分しかいない。

あの時何を考えたのか、あの時なんで行動したのか。全て知るのは自分のみである。

 

 

自分を知るには過去がもっとも確かめやすい。

だが過去について考えたら「もしこうしていたら」を考えることになる。

後悔をして憂鬱になる。

いまの自分ならあの時の最適解を見つけてしまうのだ。

でもどうしようもない。過去は変えられない。妄想の中で永遠に最適解の世界を妄想しつづけたら、終いには夢にでてくる。私は悪夢を見やすい。

現実をみれば過ぎた話、終わりをつけてるつもりでも、夢はそうはさせてくれない。

結果私の睡眠は最悪の目覚めになる。

忘れていたことさえ思い出してしまうのだ。

過去の自分が原因となって今の自分という結果が得られるのだから。

原因と結果はきってもきれない。

 

人はこの時、この憂鬱を何かに依存してなかったことにしようとする。

酒であったり、賭けごとであったり。

私は酒を嗜むが意味のない嗜みはしない。私の中で酒というのは昼夜逆転したときの調整用の薬か、どうしようもなく憂鬱になったときに強制的に眠るため薬である。

酒を飲むと思考が鈍るから思考好きの私にはあまり価値がないのである。

パチンコもそうだ。すこし嗜んだがあれは金と時間がみるみる内に溶けていく。暇を持て余すのなら価値はあるのだろうけど、ただハンドルをひねるだけでというのは論理に欠けるので飽きてしまった。ポーカーなら思考をする余地があるのでまだ楽しめる。

将棋も麻雀もやったが、あれは自分より上手い人がいるから劣等感を感じてしまう。

最終的に賭け事やゲームは、実力8割、運2割のものに落ち着く。

 

あれ、なんの話をしていたのだっけ?

こうやって書いていると、自分が何に対して憂鬱になっていたのを忘れてしまう。

ストレス発散記事はそれが目的なのだけど。

 

勉強をしたり、考察をしたり、絵の練習をしたり、私は器用貧乏であり大器晩成なんだ。体調が優れないのは嫌な夢をみたからだ。少し疲れたのかもしれない。

たまにはこういうストレス発散記事を書いてみるとスッキリする。