Frog in a White Coat.

アニメと数学、それと勉強。

同じ真理でも言語によって考え方も変わってしまう。

考察に欠かせないのが「言語」。

考察をしていると、ただの「言語」の違いによって「考察」の内容がそもそも変わってしまう経験が多々あります。

どういうことでしょう?

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たとえば、リンゴの色を言い当てるとき「リンゴは緑色である」「リンゴは赤色である」という2人の意見が生まれることがあります。

もちろん、現実のリンゴは1つの色で表すことができません。濃い色や薄い色らのさまざまな色が混ぜ合わさってできています。

私たちは「ええと、左上が薄い緑で、右上が濃い緑で・・」と正確に言うときなんて滅多にありませんから、平均をとって色を答えるわけです。

リンゴの色を言い当てるには、「リンゴはリンゴの色」と言うのが正しい表現なのかもしれません。

では、思考実験として2人にリンゴの色を聞いてみましょう。片方は「日本語」を使い、片方は「英語」を使います。

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リンゴはリンゴの色である。The apple is a color of the apple.(リンゴはリンゴの色である。)

2人とも正しいことを言っています。でも、そのリンゴの色とは具体的にどんな色なんでしょう?

こんな仮定を置いてみます。

日本語を使う人の国には「赤色」のリンゴしか生えなくて、英語を使う人の国には「緑色」のリンゴしか生えない。

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リンゴの色とは知識として記憶されます。

結果、2人とも同じ事実を言っているのに違う意見になってしまうのです。

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2人の目の前にリンゴがあれば、食い違うことはありません。

「目の前にない」条件では、お互いに同じこと言っているのに違う表現になってしまうのです。

例として、日本語を使う人と英語を使う人をあげましたが、実は同じ言語でも同様の現象がおきます。

「言語」とは、目の前にありません。ここで、同じ内容のはずなのに表現が変わってしまいます。「その単語がすでに抽象化されている」ときと「概念」ときにはっきり表現が変わってしまいます。概念とは実物がありませんから確かめようがありません。

具体例をあげると、「並行世界」と「仮想世界」です。

んん?並行世界は、パラレルワールドで世界が分岐なんとかするやつで、仮想世界は、ゲームとかの世界で全く違うでしょう?と思いますが、本質的に同じ概念ということです。

 

本質は同じ 

並行世界=仮想世界

 

これは仮想世界を創ってみると気づきます。創作をします。

「もし仮想世界があったら〜」と考えてみます。これも考察です。

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もっとも単純に考えると、四角形を世界だとして一番左の四角から右に世界が分岐していきます。

では、世界を外から見てる人にはどう見えるでしょうか。

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世界を外からみると、仮想世界の選択肢によって世界が分岐しているように見えます。外からみると、この世界たちは仮想世界に見えます。

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次に、世界の中の人から見るとどうなるでしょう。

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世界の中の人から見ると、同じ時間に別の分岐があったように見えます。

世界の中から見ると、この世界たちは並行世界に見えます。

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つまり、本質的に概念を考えていたことになります。

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「主観」を変えただけで、並行世界になったり、仮想世界になったりしていたのです。

これが本質は同じなのに、表現が変わってしまう一例です。

 

同じことでも表現が変わってしまう

ループ世界=仮想世界

同じように考えると、ループ世界と仮想世界が本質的に同じことが解ります。

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西暦1990年から始まって、西暦2040年に西暦1990年に戻るようなループ世界を考えてみます。

これと同じ形になるように、仮想世界を創ることは可能です。

ただしこの場合、条件が必要です。

仮想世界の中の人から見て、どうなればいいのかを考えると、まず、2040年の物体(建物、人物)を1990年に戻すことと、全人類の記憶をリセットすればいいことが解ります。

物体の状態とは情報のことです。仮想世界(ゲーム)で考えると解りやすいのですが、物体の状態を設定するには、その物体に情報を与えればいいのです。

つまり、物質の状態とは情報になります。

人々の記憶についても、記憶媒体をイメージすれば解りやすいです。ハードディスクとかメモリースティックとか。つまり、記憶とは情報のことです。

物質の状態と人々の記憶をまとめて「情報」としてリセットすればいいことになります。

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情報とは、物が取り得るあらゆる状態の総和の内、現実に実現している状態、と定義されます。これすなわち、エントロピーの定義そのものらしいですが、難しいことはよくわからん。

この同じ形が言えたとき、そのときする操作も本質は同じことを意味します。この場合ですと、仮想世界で「すべての情報をある時点の情報に上書きする」ことと、ループ世界で「〇〇をする」ことは等しいということです。

まず、仮想世界で考えると、2040年から1990年にするには「1990年の情報のコピー」が必要です。コンピューターでいう、バックアップをとることです。そして、「2040年の情報を1990年に上書きする」と1990年の世界になります。

次に、ループ世界で考えると、2040年から1990年に戻るには「1990年の戻る時点」を決めておく必要があります。次に、「ループが発動する」ことで1990年にループします。

ということは、

仮想世界で「ある時点のバックアップをとる」操作と、ループ世界で「ループの戻る時点を決める」操作が等しくて、

「ある時点の情報を上書きする」操作と「ループが発動する」操作が等しいことになります。

言葉の表現が違うのに、本質は同じことを言っていたんですね。

 

科学の話に、シミュレーション仮説というものがあります。

これはこの現実は実は仮想世界のようなもの、という内容です。

シミュレーション仮説 - Wikipedia

あれ?と気づくと思いますが、これ仮説はさっきあげた仮想世界を中の人から見た場合のことを考えてることと同じことです。

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外からみれば仮想世界だし、中から見れば並行世界のあれです。

仮想世界=シミュレーション仮説

 

以上の考察をまとめて、並行世界は仮想世界であり、仮想世界はループ世界であり、仮想世界はシミュレーション仮説であると言えます。

並行世界=仮想世界=ループ世界=シミュレーション仮説

さらに考察をすすめると、シミュレーション仮説が正しいのなら、この世界には並行世界が存在するということになります。表現が違うだけで概念の本質は同じですから。

 

創作の世界に時間を設定する必要はない

創作、特に「物語」を創った経験がある人には分かる話ですが、創作では時間を設定する必要はないんです。「〇〇が何をした。だから○○になった。」で書いていくと時間を設定しなくても物語は進みます。

創作には、季節を表わす表現が必要になります。セミが鳴いていたり、雪が降っていたり。創作で基礎と言われるものです。創作をはじめたての人は、時間を設定しなくても物語は進んでいくのですから時間を表す描写を忘れてしまうのですね。

私は、タイムトラベルものの創作をするときに、時間は設定しなくていいので「あれ?時間がない?どうやって時間が戻ったって表現しよう?」と悩んだことがあります。

1つにカレンダーをとりいれる。物語にカレンダーとか時間を表す描写を付け加えることで、ループしたことを明らかにすることを考えました。

でも、ループしたことを明らかにするには時間を取り入れなくても、あの時と同じ状況を書けばいいことに気づきました。時間とは必要なかったのです。

 

なぜ創作の話をしたかと言うと、仮想世界を考えるとき「創作をします」と言ったことです。仮想世界は創作でも考えることができるのならば、仮想世界にも時間を設定する必要はないことになります。

 

ただ、仮想世界、現実をシミュレーションするときは物理の式で表すことでできます。運動方程式には時間のパラメーターがあるし、流体の方程式にも時間のパラメーターがあります。

 

これは矛盾しますね。

時間とは概念です。目に見えない確かめようのないものですから、言語によってそうさせてるのではないでしょうか。最初のリンゴのたとえと同じです。

本質となる概念があり、この地球ではそれを時間と呼んでいるだけで、もし別の宇宙があったなら、この本質となる概念を時間ではない別の表現で表してると考えられます。

言うならば、人は言語によって制限をうけているのです。

本質は同じことを言っているのに、違う表現になってしまい、その表現の違いから違う概念だと勘違いしてしまう。

仮想世界と並行世界の本質の概念は同じものでした。外からみれば、仮想世界で、中からみれば、並行世界。〇〇からみれば「時間」と呼ばれ、〇〇からみれば〇〇になるという考え方です。

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世界の中からみると「時間」でも、外からみると「分岐」になる。

「時間の経過」という操作は、「世界の分岐」という操作と本質的に等しい。

 

考察は言語によって行われます。つまり言語による考察はいつか限界がくるのです。同じ内容なのに違う言葉をつかってしまう。結果、同じことを言っているのに表現が変わってしまう。よって、真実がみえなくなる。

おわり

(((おまけミニ論理的推論:

世界の分岐とは何か?→可能性である→可能性とは何か?→情報である→情報とは何か?→物が取り得るあらゆる状態の総和の内現実に実現している状態⇄エントロピーの定義→よって、エントロピーを考えると時間の方向が導き出される。

世界の分岐はなぜ一方向なのか?→本当は360°あらゆる方向に矢印があるけど、一人の人間が認識できるのはその1つの矢印だけであるから。→2人の人間が同じ矢印に向かうのはなぜか?→そう認識されるだけで、もう一人の人間は別の矢印から来たから。→つまりは、微小誤差の別世界の人物を同じ人物とみている→これは自分にも言え、1秒前の自分と今の自分は別の人物であり、誤差が微小であるためそれに気づかない→気づかない原因は何か?→記憶である。記憶によって自分が継続していると感じる→記憶が継続するのはなぜか?→記憶は分岐に左右されないから。→記憶とは情報であり、情報は世界分岐に左右されない。

→世界分岐とは何か?→情報の書き換えである。→上の結論と矛盾。

→気づかない原因はなぜか?→誤差が微小であるから→なぜ誤差は微小なのか?→世界の真理に由来するため答えることはできない。

→360°あらゆる方向に矢印があるのならば、過去に向かう矢印がないのはなぜか?⇄世界の分岐はなぜ一方向なのか?→循環。

結論、なし!)))