Frog in a White Coat.

アニメと数学。

【考察】記憶・知識・経験・思い出の違い。

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思い出、経験、知識、記憶

たとえば、「あなたの”記憶”は何か?」と聞かれたとき答えることはできるだろうか。「あなたの”知識”は何か?」「あなたの”経験”とは何か?」「あなたの”思い出”とは何か?」を問うたとき答えることはできるだろうか。そしてその答えは決まって「○○のとき〜」と時間的な条件文になっていないだろうか。

 

こんなことを思ったことはないだろうか、もしあなたが日本人なら「漢字」をどうやって身につけたのだろう。「経験」という漢字は大体の日本人は書くことができる。このとき、「経験という漢字を覚えた記憶」を思い出して書いているわけではない。たとえば、キーボードのタイピングにも「何故できるのか」を考えたことはないか。TとAを組み合わせるとTAになるといちいち考えているわけではないだろう。

 

漢字だってそうだ。日本人なら小学校、中学校で嫌と言うほど書かされたこと。もうそんなことも忘れて、日常にうんざりしてきたころに、とっくに忘れているはずなのに、”書けてしまう”ことに驚くだろう。思い出、経験、知識、記憶の中では、知識が一番考えやすい。知識というと専門書を思い浮かべるように、公の真理に基づいて得た能力である。つまりは専門的な記憶のことを知識と呼んでいるのである。糸の結び方から家系図、数学にいたるまであらゆる専門である。

 

第3代将軍を答えることも。わざわざ第3代将軍を習ったという記憶を思い出しているわけではない。糸の結び方だってそうだし、数学だってそうだ。これらは”漢字”と同じように、思い出さないタイプの記憶である。知識というのは、「〇〇のとき〜」と言った時間的な条件をもたないのである。「幼少の頃、友達の家で泣いた」というのは「記憶」とも言えるし「経験」とも言えるし「思い出」ともいえるが、「知識」とは言えない。これは「幼少の頃〜」という時間的な条件がついているからである。

 

ではたとえば「幼少の頃、友達の家にはブランコがあった」というのは知識と言えるのだろうか。友達を大統領にしてみると「幼少の頃、大統領の家にはブランコがあった」という文ができる。ここで大統領の家にブランコがあったというのは情報として価値はあるが、「幼少の頃」が不要である。話者が幼少の頃なのか大統領が幼少の頃なのかわからない。意味のない情報である。

 

まとめると、知識とは時間的な条件に束縛されない、かつ、思考領域に存在する情報ということになる。知識を身につけるときに気をつけることは、時間的な条件をかけないことにある。小学校のとき〜、中学の時〜、高校のとき〜といった情報は知識にはならない。逆に、知識という情報は、小学のときでも中学のときでも高校のときでもいついかなる時でも習得可能な情報を指すのである。

 

時間的な条件は限定条件とも言える。たとえば、「修学旅行の記憶」はそのとき限定の記憶であり、そのときに年代、状況、交友関係に束縛され、別の時間軸に当てはめて考えることはできない。「修学旅行の記憶」は知識ではなく、経験や思い出、記憶に分類されることになる。

 

 

知識について考察が深まったところで「経験」「思い出」「記憶」についても考えよう。記憶については抽象的である。「あなたの記憶とは何か?」と聞かれたときこれに答えることはできない。「何の記憶であるか?」を聞き返さなければならない。先の考察より「修学旅行の記憶」は記憶という言葉を使いながら、思い出とも経験とも言えるといった。つまり記憶が大元にあり、これを細分化したものが経験や思い出となるのである。そして、経験と思い出の違いは、今の年代、状況、交友関係、つまりは環境に、応用できる情報であるかで区別できる。

 

たとえば、失敗した経験というのは、今の状況に少なからず影響をもたらす。たとえば、「あの道路には段差があって転んだ」という経験は、これからその道を通るときに応用できる情報になり、転ばないようにと気をつけるのである。しかし、これは環境に影響される。たとえば、「沖縄の夏は暑くて危険であった」という情報は沖縄に住んでいるときには”経験”になるが東京に住んでいるときは”思い出”になるのである。

 

以上のことをまとめると、

 

情報

↓↘️(時間的な条件)

記憶 知識

↓↘️(環境的な条件)

経験 思い出

 

となる。