久々の考察回。
もともとこのブログは考察メイン。
頭の中の思考を吐き出すために用意した書き置き場、本当は量子論や相対論、あるいは、小説のアイディアを書き溜めておくところ。なお、私は数学も英語もできない。少しはましになった思考回路も、数の暴力には勝てない。今更、正統派をきどったって遅れ遅れもいいところ。だから、アイディアを小説に落とし込んだりして発散している。
ただ、難しい話を小説に取り込んだって面白い作品にはならない。並行世界のアイディアをまるまる取り込んだ処女作は、ほぼ、自己満足になってしまった。まあ、創作というのは自己満足でいいと私は思う。誰のためでもなく読みやすく書くわけでもなく、自分のために作る、それが趣味だ。
ただ圧倒的にひきだしの少なさを痛感した。漫画かアニメを観てきたのでひきだしもそっちよりになってしまう。伝統的な書き方や作法も知らない。ただ、小説というのは便利なもので、文字が書ければできてしまう。かといって誰でも書けるわけではない。ある程度の苦しみを覚悟しておくべきだ。相当の苦しみを。
私はよく思考を書き起こしてしまう。だから深く考えこんだことは一度、この書きだめに書いておいて発散させようということだ。小説の内容は、考えれば考えるほど深まり楽しいのだけど、「物理」と「哲学」の類も同様に考えれば考えるほど楽しめる。ふたつは同じ意味で楽しめるのだけど、小説に「哲学」はいらないでしょ。・・・いや反論しようとすればできるのだけど、「水の魔法」を使ったり「火の魔法」を使ったりするときに、「その水はどこから生成されたんだ?」「火は現象ではないか?」とか考えたりしてしまうのだ。
だから、「哲学」と「小説」をわけて書くことにした。このブログは「哲学」がメイン。小説は小説で別に。
では、本題に入ろう。
観測とは何か
ふと思った「観測」とは何か。なんてことない誰でも考えるような内容だ。観測。一見あたりまえのようで不気味な代物である。ことのはじまりはレーダー探知機にある。本当は詳しくは知らないのだけど、語らせてもらおう。
レーダー探知というものは、電磁波を飛ばしてそれが反射したものをキャッチして観測する。ステルス戦闘機などは、反射した電磁波がレーダーに返っていかないように設計すると聞く。つまり観測者(レーダー探知機)が材料をなげてそれがどんな形で返ってくるかで観測している。
では人間はどうだろう。「見る」ということに関していえば、光が物体に反射して、それを瞳がキャッチする。だから私はりんごが赤いことを観測できる。ただ、レーダーと違うところは、観測者(私)が材料を投げているわけではないということだ。私が光っているわけでもない。そして、私が何か信号を発信してそれをキャッチしているわけでもない。「見える」というより「見えてしまう」。ここでひとつ疑問に思った。
「物体に何の影響も与えず観測することは可能か」と。
ただ、私が「見る」という行為をするだけでも、レーダーと同じようにその物体に影響を与えていると思ったのである。「見る」という非接触行為に思えるが、果たして、その「系」をその「系」のまま観測することはできるのかということだ。
私はこの問題を考えるに当たって思考実験を行った。
思考実験1
- 部屋Aと部屋Bが存在する。
- 部屋Aには「りんご」、部屋Bには「ばなな」が存在する。
- 部屋Aには観測者が存在する。
- 観測者は3文字しか記憶できない。
このような仮定のもとで思考実験を開始する。
ここで思うのが、「部屋Bのばななは存在するのか」である。仮定の時点で存在するとしたものの観測者にはわからないことだ。
また観測することを記憶することにして、吹き出しで表している。「りんご」と吹き出しがあることを、「りんごを観測した」と同じと考える。ちなみに、この観測者は3文字しか記憶できないように設定する。
「部屋Bのばななは存在するのか」だが、観測者が部屋Bにいって確認すればいい。ここで、「観測者は3文字しか記憶できない」としているので、移動する際に忘れなければならない。
すると、観測者は部屋Bでばななを観測する。「ばななを観測した」をまた吹き出しで表す。
今度は「部屋Aのりんごは存在するのか」ということになる。「りんごを観測した」ことを忘却したので、部屋Aでりんごを観測したときと同じ状況になる。
これは「観測者は3文字しか記憶できない」と仮定しているからである。
このとこから言えるのは、
- 存在するが原理的に観測できない「系」(部屋)が存在する
- 「系」(部屋)をありのままに観測することはできない(部屋Bのばななの存在を観測するために、部屋Bに入らなければいけない)
である。
「観測者は3文字しか記憶できない」と仮定する理由は次の思考実験でわかる。
次の実験に入る。
先ほどはりんごやばななを設定したが、今度は、0と1しか存在しない世界で考える。
思考実験2
今度はりんごやばななの代わりに、0と1を用意する。そして0と1だけ存在すると仮定する。(観測者、部屋A、部屋Bは存在する)
この観測者も一桁(1ビット)の情報しか記憶できないとして、別の部屋の情報を観測するのに前の情報を忘れなければならない。
部屋Aで「0」を観測したとき、部屋BはXである(Xは0か1)。0を観測した状態を「1である確率は0で、0である確率は1である」と表す。
この状態で、(部屋Bの)Xが1である確率は1/2で、0である確率は1/2である。
観測者が部屋Bに移動して観測した場合、1であったなら「1である確率は1で、0である確率は0」、0であったなら「1である確率は0で、0である確率は1」と考える。
ここで思うのが、「部屋Bに移動したとき部屋Aの情報は保存されるか」である。0のままであるかXになるかどうかだ。
この状態を最初に仮定した状態と同じで部屋Aと部屋Bが入れ替わっただけだと解釈することもでき、その場合、部屋Aの状態はXになる。
「部屋Bに移動したとき部屋Aの情報は保存されるか」
りんごとばななで考えたとき、
初めて考えたときに、この状態で、第三者が部屋Aに入り、観測者に知らせずにりんごをばななとすり替えると設定した。これは部屋Aの情報を不定にするものためだ。(第三者も観測者になりえるが、部屋をでたあとに忘れるので部屋Aの情報を書き換えることは可能である)
もし0と1の世界でも同じことが起きたとき、不定になる、つまりXに起き変わるのなら、すこし奇妙な結論になる。
Xは「1である確率が1/2で0である確率が1/2である」。壁をなくても、やはり観測者は1つの情報しか記憶できない。つまりどちらかが必ずXになる。
結論は「全ての情報は常に1以下の確率で存在し、観測されると確率1で存在する」である。
3文字しか記憶できない
「3文字しか記憶できない」「一桁(1ビット)しか記憶できない」を設定する理由は、「観測者が記憶できる情報」<「全宇宙の情報」の不等式を保つためである。
思考実験では部屋Aと部屋Bを設定しているが、この部屋が「全宇宙」に相当する。ゆえに、観測者は「すべての部屋を同時に記憶することはできない」とするために記憶の制限を用意した。
「記憶できる情報」=「全宇宙の情報」ような知性を考えることはできる。この場合、結論は「全ての情報は常に確率1で存在する」になる。感覚的にはこちらの結論のほうが正しい気がするが、それには「記憶できる情報」=「全宇宙の情報」でなければならない。
0と1だけで考えたのは、コンピュータでも同じことが考えられるからである。コンピュータであれば、一桁しか記憶できないことも再現可能である。
コンピュータであれば「記憶できる情報」=「全宇宙の情報」も可能な気がするが計算をするのと記憶するのは別である。たとえどんなに優れたコンピュータだとしても、「記憶できる情報」=「全宇宙の情報」を満たすようなことはない気がしてきた。
考察はこれでおわり。
「全ての情報は常に1以下の確率で存在し、観測されると確率1で存在する」
この結論は量子論の話、2重スリット実験、マッハツェンダー干渉計などの量子のふるまいに一致する。私はその内容を知っているので、確証バイアスでもかかったのかと思ったほどだ。
だからといって何かがわかるわけでもなかろう。実験的に観測されてることを机上の空論から導きだしただけである。ただ、忘れるのももったいないのでここに書き散らした。
自分的には満足である。これで小説の内容にも集中できる。いまは引き出しを増やしている。やはり、アニメを観てきた経験が多いので、アニメ化した小説をあさっている。好きなことと関連づけないと読めないもの。
『ハウルの動く城』
ジブリ作品で有名であるが、原作は小説であった。『不思議の国のアリス』のような文体である。サリマン先生はすごくいい。宮廷魔法使いとかぜひ私の小説にも登場させたい。